母親


長い間日記とフォトグライフの更新を停止しておりました事をまずお詫び申し上げます。
学校で色々とゴタゴタがあって大変でした。


っていうか、そんな事よりもっと書かねばならない大事な話があります。
不謹慎で暗い話題ではありますが、ネットで繋がっている友人の皆々様にもちゃんとご報告せねばならん、と思いまして。
事細かに書きますので、非情に長くて読み辛いかと思いますが一応目を通してくれるとありがたいです。




2005年5月5日
うちの母親が亡くなりました。


病名《原発性胆汁性肝硬変》
現代の医療では、薬類だけでは完全に治すことが難しく
「肝臓移植」
しか治す方法が無いと言う、日本国内では数えるほどしか執刀出来る医者が居ない難病。
妹が生まれた16年前に原因不明で発病し、「後10年しか生きられない」という宣告を受けていた。
まぁその話は、つい2.3年前に聴きいたんですが。
6年も長生きしたんです。


では、以下にそれについての出来事を書き記します。




4日に某KMC宅で遊んだ帰り、学校の友達に渋谷に呼び出されたので帰り道だしと思って遊ぶ。
渋谷を適当にぶらついてると、夜9時頃に妹から着信。
「お母さんが危ないんだって。だから家族皆病院に集まらなきゃいけないらしいからすぐに帰ってきて。」
余りにも唐突な話だった。
とりあえず友達には事情は言わず「急用」だといい、10時過ぎに渋谷を出る。


平塚に着いた時には日付けが変わっていた。
イトコが車で迎えに来てくれたので、病院まで連れて行ってもらう。
病院の匂いが大嫌いな俺は怪訝な顔をしながら8階の病室へ急ぐ。
ばーさんと妹。
そして点滴だらけで酸素マスクをつけた母親がベッドに居た。
「大丈夫か?」という俺の問いかけに無言で小さく頷く母親。
とりあえず看護士や医者の邪魔にならない場所で椅子に座って待機。
当たり前だが、俺には何も出来ない。
今まで以上に痛感した無力さに、軽く脱力状態でただひたすら時間が経つのを見ていた。
1時、2時、3時と1時間ごとに煙草を吸う為病院の外にイトコと出た。
病室でも外でも重苦しい空気。しんどいとかいうレベルではない。


3時の煙草を吸い終わって病室に戻ると、少し慌しい雰囲気になっていた。
痛み止めが切れたらしく、かすれた声で痛みを叫ぶ母親。
痛みを止める為の点滴をするも、痛みが引かないらしく苦しみ続ける。
仕舞いには「殺して・・殺して!」と叫んでいた。
胸が痛むと言うのはこう言う事なのか、と。
どれだけ痛かったんだろう。どれだけ苦しかったんだろう。
俺には想像出来ない。
足の複雑骨折と靭帯断裂を同時にやった時だって自力でタクシーを呼んで病院に行ったほど、強かった母親。
それが今こんなにも辛そうで。
しばらくして点滴の効果が出たのか、病室は静かになった。


3時40分頃、血圧を計りに来た看護士が母親に声をかける。
が、反応が無い。
その看護士は足早に病室を出て、医者を連れて戻ってきた。
よくドラマなんかで出てくる心拍数を表示する機械が運び込まれ、母親に繋がれた。
その時表示された心拍数は、40前後。
休憩所で休んでいたばーさんと妹を呼び、全員が集まった中で医者が話を始めた。
「御覧の通り心臓は辛うじて動いて居ますが、既に意識がなくなっております〜〜〜〜〜」
そんな切り口から、何度も聞かされてきた病気の説明をまたされる。
そして午前4時丁度、医者が最後に手首で脈拍を確認。
「御臨終です」
目の前の母親が、「人間」から「塊」になった瞬間だった。
悲痛な叫び声をあげ、泣きじゃくるばーさん。
俺の隣りに居た妹からも、すすり泣く声が聴こえた。
もう自分で立つことすら出来ないばーさんを、イトコが抱えて病室を出た。
病室に俺と妹の二人が残される。
妹が母親の手を握り、滝のように涙を流しながら必死に喋りかけた。


「ごめんね。痛かったよね。苦しかったんだよね。いつも迷惑かけてばっかりでごめんね。
孫の顔見たいっていってたぢゃん。あたし頑張ったんだけどね、彼氏出来なかったんだ。ごめんね。
いつも死ねとか殺すとか言ってごめんね。全部嘘だったんだからね。
本当は大好きだったんだよ。一緒にプリクラも撮りたかったんだけどね、あたし素直ぢゃないから言えなかったんだ。
それにもう警察に捕まるような悪い事しないからね。良い子にするからね。ちゃんと学校も行くからね。
だからなんか返事してよ・・なんで無視するの?・・なんで死んじゃったんだよぉぉぉ!!!!」


今まで我慢してた俺も、妹のかけた言葉に涙が出てきた。
立ったまま動けなかった俺に、「触ってあげて」と妹が言い、妹の横に並んで母親の手を握った。
もう冷たくなっていた。
それだけで涙が溢れる。
俺はただ一言しか言えなかった。
「ありがとう」
と。


数分後、看護士が病室に来た。
体を拭いて着替えと化粧をするらしく、家からそれらを持ってきて欲しいとの事。
イトコの車で家に戻り、必要な物を持ってばーさんが病院に戻る。
ちょっとしたら母親の友人達が4.5人集まってきてくれて、母親を寝かせる部屋の片付け・掃除・準備を手伝ってくれた。
しばらく休憩してると、霊柩車で母親が運ばれてきた。
準備した部屋に寝かされる母親。
皆で合掌。


その後、ばーさんと母親の友人たちでお通夜等の日取りを決めたりしていた。
俺は干しっぱなしの洗濯物が気になったのと着替えの準備をする為、一回綱島に戻る。
一通り準備を終え、昼前に寝てしまった俺。
起きたら夜8時。なんてこったorz
携帯を見ると「着信 78件」
着信履歴が全てイトコの名前で埋め尽くされてた。
50件しか記録されないのに、それをオーバーするってどんだけ必死にかけてきたのかと。
爆笑しながらもさっさと準備をしてすぐ平塚へ戻る。
駅から実家までは5分で着くのにわざわざ車で迎えに来てくれたイトコ。
何してたんだと軽く怒られつつ、実家到着。
母親の妹、つまり俺の叔母さんにあたる人が九州から駆けつけていた。
それとばーさんの弟である青森の親戚も来ていた。
右から青森の方言、左から九州の方言が聞こえてなんかもう異国に居るのかと思った。
んで夜中から俺と妹と叔母さんで変わりばんこに、母親の居る部屋で線香を絶やさない様、夜通し見守る。




5月6日。
天気は生憎の雨。しかも結構大降りだ。
「母親の涙かな」なんてわけわからん事思ってみたり。くさっ>俺
寝ずに朝を向かえ、お通夜の準備が始まった。
妹が友達にその事について連絡をしていたのを見て、俺も連絡する事に。
とりあえずジョーに電話する。
が、既に知っていた。
話を聞いてみると、どうやら妹が連絡した友達の兄=俺の友達に話が伝わったらしく、そこから皆に連絡が廻ったそうだ。
しばらく雑談(主にT梨とかの話)をして電話を切った。
その後、中学の頃の先生に電話。
これまた既に知ってたらしい。
妹の友達→その親→先生たちって流れが出来てた様子。
この連絡網ばりの伝達速度はちょっと感動した。


で、夜6時を過ぎた頃から人が集まり始めた。
俺は「6時40分くらいに公園集合してから行く」ってジョーから聞いていたので、そのくらいの時間に近所の公園へ。
既に友達が10人くらい集まってた。
しかも全員草野球メンバーとか。お前等の団結力に涙でるっつの。
ちょろっと喋ったところで、お通夜開始の7時になりそうだったので俺は先に家に戻る。
玄関先に妹の友達であろう、大量の女子高生がいた。
うわ、いいにお(不謹慎


そして7時、「友人葬」として実家で執り行われるお通夜が始まった。
俺は中学時代に壊した膝の所為で正座が5分と出来ないので、仕方なくアグラをかかせてもらった。
御焼香をする間ずっとお経をあげ続け、最後に母親の生涯を振り返る話を聴き、40分ほどでお通夜は終了。
その後、リビングや屋根付きの車庫を使って来てくれた人達と食事タイム。
そこで俺の友達、その親、中学時代の先生、野球部の後輩、顔見知りの妹の友達なんかと雑談。
ジョーが「寿司のシャリに柿の種乗せるとすげぇ美味ぇぞ!」とかいって皆で食ってた。
ほんとに美味かったってあれは!
平塚のノリとテンション最高だな。
玉子2つ一気に喰ったり、河童巻を3つ咥えたりしてすげぇ楽しかった。
仕事帰りの某真弓も、わざわざ1時間半かけて平塚まで花を持ってきてくれたりで。
ありがとよ我娘。


後、小学校以来ぶりに会う親戚の人たちはある意味面白かった。
俺の目の前で「たっちゃんにも宜しくね」って言われて「いや俺ですけど!?」って突っ込んだり。
やっぱ分からないもんなんですかね。
ってか俺変わりすぎ?みたいな。
ある人には「お父さんかと思った」とか「子供いそう」とか。
むしろ俺老けすぎ?みたいな。


で、一回解散した後、近所のコンビニで駄弁ってたらしいジョー・シブ・ヤッチ・モニコの4人でウチに来ることに。
俺が「隣りの部屋に妹の友達、つまり制服の女子高生が15人くらいいるぞ」っつったら皆で覗いてた。
でもジョーの妹が居たので「気まず!」っつって終了。
その後三文字しりとりやって、罰ゲームにいなり寿司の袋に色んなもの詰めた奴喰ったりとかして盛り上がった。
そして俺が唯一持ってるロックマンX4(セガ版)を途中までやって解散。
皆帰った後、俺一人で�怳妖櫃靴討拭◀匹鵑世吋蹈奪唫泪鷙イ④覆硫兇蕁�


その後、夜中に親父が来た。
初期の頃からSNAFKINを見てる人ならご存知かと思いますが、うちの両親は5年前に離婚してます。
で、俺は2年前に親父と喧嘩して以降、会ってませんでした。
俺は来ても会う気は無かったけど、叔母さんに言われて俺と妹と親父の3人で話す事に。
親父は土下座して謝ってきた。
色々話した気がするけどよく覚えてない。
とりあえず、俺とは和解って結果に。
まぁ俺らに親が居なくなったのは変わらないんですけどね。
近いうちに焼肉でもつれてって貰います。


んでこの日は俺とイトコで酒飲みながら母親の居る部屋で語ってた。
基本的に女の話してたんですけど。
9歳も年上の割りに好きなタイプで意気投合。
んで梅酒5本飲んだイトコは3時頃就寝。
一人で暇なので無理矢理妹を叩き起こして駄弁る。
暇潰しに香典もって来た人が記帳した奴を見てた。
そしたらお通夜の時に会えなかった知り合いの名前が結構あって吃驚。
草野球メンバーは最終的に14人来たみたいで、元生徒会長のH君の達筆で14人の名前がかかれてた。
愛してるよお前等。
で、俺の友達は合計21人来てた。
妹の友達は64人。
って3倍かよ!
そりゃ吃驚するほど女子高生居たわけだ。
んでその後でばーさんから聴いたんだけど、香典持ってきた人だけで250人来たとか。
持ってこなかった人入れたら300人は超えてるっぽい。
一個人で、尚且つ一般人のお通夜にこれだけの人数が来るのは凄いらしい。
んで朝5時くらいにばーさんが起きてきて、俺と妹は就寝。



5月7日。
この日も雨が降っていた。昨日より大分小雨ではあった。
10時に起されて準備に取り掛かる。
今日は告別式と葬式。
11時からまたお経が読まれ、20分程で終了。
その後、母親と最後の別れ。
棺が開けられ、花と折鶴、母親の好きだった煙草やビーズアクセサリー、寂しくないようにぬいぐるみ等を入れた。
一生忘れない様、母親の顔を焼き付けた。


そしてばーさんが位牌、妹が花、俺が写真を持って外へ。
道路を挟んで来た人たちと向かい合いながら、青森のおじさんが挨拶を読み上げる。
話の最中、端っこの方に野球部顧問であり中3年の時の担任であるS先生や、妹の部活の顧問だったY先生の顔が見えたので軽く頭を下げた。
喋る時間が無くてかなり残念・・。
で、火葬場へ行く人たちが送迎バスにのって向かう。


平塚の北の端にある「平塚市聖園」という場所。
存在はこの時初めて知ったんだけど、すげぇ綺麗だった。
とても葬儀場とは思えないほどに。


で、告別室で最後のご焼香をして火葬場へ入る母親の棺。
ばーさんは、もう歩けないくらいに泣いていた。
俺は心の中でさよならを。


で、火葬されてる間に休憩室で皆で食事。
親父と対面の席で座り、親父が知ってる俺の同級生の話をした。
主に野球部のやつ等の進路とかだったかな。
しばらく喋ってると、某碧さんが俺のとこに来て「煙草吸い行こ」っていうので一緒に休憩室を出て行った。
っていうか来てた事この時気付いたっていう。
んで外の喫煙所で煙草吸いながら色々駄弁った。
チャットのやつ等のことばっかだったけど。
そっちもそっちで修羅場大変だなぁとか思いつつ。


んで部屋に戻ってちょっとしたら火葬が終了したとのアナウンス。
役員に案内されてお骨の確認。
そして来た人2人1組で、骨壷に収骨。
残りは役員が収めた。
そして俺が骨壺を抱え、またバスに乗って実家へ帰宅。


居ない間に母親の友人や弁当屋さんによって飯の準備がされてた。
んで皆で食事タイム。
でも明らかに俺の好き嫌いを放置して選んだ食事内容だった。
喰えたのは炊き込み御飯と茶碗蒸と茶蕎麦だけですよ。
そしたら親父、叔母さん、叔母さんの旦那さん、茅ヶ崎の親戚、母親の友人の5人から茶蕎麦貰いました。
わーい、一人ワンコ蕎麦大会だ。
重たくなった腹を抱えながら皆さんを送り出し、3日ぶりにやっとまともに寝ることが出来た。




以上。
慌しいGWでしたが、学校を休まずに済んだのがちょっと幸いな部分かな、と。


「徒然なるままに独り言」史上最長の日記ですが、ここまで読んでくれた方に感謝致します。





そして母親に、ありがとう。